朗読劇と舞台の中間、と聞いて、セットも整っているし一体どういう演出なんだろうと気になっていた。
確かに、台本を手に持ってそこにある文字を読んで芝居をする、という意味で言えば朗読劇である。
しかしこれは、単なる朗読劇とは言えない。それを確信したのはクライマックスの『命のバトンを渡す』シーンだった。
人物の死後、残された人物がその人の日記や言葉に触れて思い返す、という展開そのものは古今東西に存在してきた(と思う)。
ただ今回、ずっと台本を手に(あるいは手放し言葉を自分のものとして芝居をしながら)続いてきた話の核心、『命のバトン』とは何なのか、についてを考えた時、村井が自らを語るように、英雄にこれを渡すように、これが『人の想いを残し伝える存在』であるのではないだろうか、と思う。
祖母が想いを残した日記を、祖母が最期を託した人物から受け取る。
そしてそれを読み、感じ、考える。この時、この『言葉を受け取る』演出そのものが、朗読劇の台本を持つ姿に重なってくる。命とは、想いである。
台本は台本でしかない。それでも、その本を開いたり閉じたり、時にはどこかにぶつけてみたり、あるいは手元にすら無かったり、台本を持っていること自体が演出になる。(※というのは、この前別の団体で見た朗読劇でも感じたことなのだけど)
祖母の日記を抱えて受け取ること、祖母が英雄に日記を書いている片鱗すら見せなかったこと(あるいは英雄がそれに気づいていなかったこと)を思うと、我々観劇者は『誰かから想いを受け取る』ことに殊更強く感じ入る。
台本は台本でしかなくとも、それが日記という『命のバトン』と重なることで、朗読劇の範疇を超えて、しかし舞台ですら成し得ない演出となる。
一つの朗読劇に、これだけ細部にまで拘ったセット(田舎のおばあちゃんの実家然とした佇まいの様相、広い縁側、丁寧に扱われている洗濯用具、やや曇った姿見、少し凹んだ座布団と丸々とした座布団、音のしない手入れされた障子、磨りガラスの廊下)を用意した並々ならぬ熱意、これはまさしくそういった朗読劇と舞台の間の表現の説得力を作る底の力になっている。
衣装替えもある、セットの移動もある、なんなら途中『舞台上に誰も見えないまま、影と声だけで表現されるシーン』さえある。舞台か?
いや、舞台では今回の形の『命のバトン』は受け取れないのだろう。
言葉だけで表現する朗読劇とも、本や独白を持たない舞台とも違う。新しい形の演劇を見せてもらった気がする。
推しの話
小林は押し付けがましくない。とても良い奴で二つ返事で手を貸してくれるが、強く口出しのできない立場でもある。その上で英雄を糾弾できるのが彼しかいないわけで、クライマックスに至るまで小林がどれほど和恵さんと英雄の距離感に懊悩を募らせていたかと思うとこっちの方が心苦しくなる。
そして小林は村井が現れたことを諸手を上げて喜んでいるように見えない。小林は結局、英雄に帰ってきてほしかったのだ。和恵さんのそばにいてほしかったのだ。和恵さんが救急車で運ばれた時、小林はどれほど肝を冷やしただろう。そしてそのことを報告した英雄の淡泊な反応にどれほど落胆しただろう。いい加減にしろと思っただろう。けれどそれは、和恵さんが村井に頼んだことを喜ぶ部分とも違う。村井の存在は有り難いが、それは英雄が帰ってこなくてもいいと自ら壁を作る行為でもある。